海外の屋台から考える、日本人が小さく稼ぎにくい理由

日本社会

この記事では、海外の屋台文化を見て感じた「小さく稼ぐ自由」について考えます。

東南アジアの街を歩くと、道端の屋台や小さな商売が生活の中に自然に存在しています。

その光景を見るたびに、私は日本ではなぜ普通の人が小さく始めたり、小さく稼いだりすることが難しいのかを考えてしまいます。

海外の屋台を見て、日本人が小さく稼ぎにくい理由がわかった

海外に行くと、私はいつも日本のことを考えてしまう。

観光地を見るのも楽しい。
現地の食べ物を食べるのも楽しい。
日本とは違う景色の中を歩くだけでも、気分が変わる。

でも、私が海外で本当に見ているものは、景色だけではない。

海外に出るたびに、日本という国の姿が、少し離れた場所から見えてくる。

特に東南アジアを歩いていると、それを強く感じる。

道端には、小さな屋台がある。

誰かが飲み物を売っている。
誰かが麺を作っている。
誰かが果物を切っている。
誰かがバイクで商品を運んでいる。

そこには、立派な店舗も、大きな資本も、完璧なマニュアルもない。

でも、人は働き、売り、買い、食べ、生活している。

その光景を見るたびに、私は思う。

なぜ日本では、普通の人が小さく稼ぐことが、こんなにも難しいのだろう。

日本では、何かを始めようとすると、すぐにたくさんの壁が現れる。

許可はあるのか。
資格はあるのか。
場所はどうするのか。
周りに迷惑ではないのか。
前例はあるのか。
ちゃんとしているのか。
失敗したらどうするのか。
人にどう思われるのか。

何かを始める前から、もう疲れてしまう。

もちろん、衛生や安全やルールが大切ではないと言いたいわけではない。

人が集まる場所で商売をするなら、守るべきことはある。
食べ物を扱うなら、安全への配慮も必要だ。
社会の中で働く以上、最低限のルールは必要だと思う。

でも、日本はあまりにも「ちゃんとしていること」を求めすぎているように感じる。

ちゃんとした場所。
ちゃんとした手続き。
ちゃんとした資格。
ちゃんとした見た目。
ちゃんとした説明。
ちゃんとした前例。

その「ちゃんと」が積み重なりすぎて、普通の人が小さく試すこと、小さく稼ぐこと、小さく失敗することが、とても難しくなっている。

海外の屋台を見ていると、働くことは本来もっと身近なものだったのではないかと思う。

今日、何かを作る。
今日、誰かに売る。
今日、少し稼ぐ。
うまくいかなければ、明日また変える。

その小さな循環が、生活の中に自然にある。

もちろん、そこには日本とは違う問題もあるだろう。
すべてを美化するつもりはない。

でも少なくとも、そこには「自分で動く」という感覚がある。

誰かに完璧な許可をもらってから動くのではない。
大きな組織に入ってから働くのでもない。
立派な肩書きができてから稼ぐのでもない。

まず、自分の手で何かを始めている。

私はその光景を見るたびに、日本の働き方の窮屈さを考えてしまう。

日本では、働くことがいつの間にか、大きな組織に所属することと結びつきすぎている。

会社に入る。
決められた時間に行く。
決められた仕事をする。
決められた評価を受ける。
決められた給料をもらう。

もちろん、それも大切な働き方の一つだ。

でも、それだけが働き方ではないはずだ。

自分で小さく始める。
自分で考える。
自分でお客さんを見つける。
自分で値段を決める。
自分で工夫する。
自分で失敗して、自分で直す。

そういう働き方も、本来はもっと自然にあっていいはずだ。

ところが日本では、そこから少し外れると、途端に不安定な人、怪しい人、変わった人のように見られやすい。

会社員ではない。
正社員ではない。
決まったレールに乗っていない。
普通と少し違う。

それだけで、どこか心配そうに見られることがある。

私はそこに、日本の息苦しさを感じる。

小さく始める自由がない。
自分で試す自由がない。
失敗しながら覚える自由がない。

そして、その背景には教育も関係していると思う。

日本の学校では、長い間、決められた答えを探すことを求められる。

正しい答えを書く。
周りと同じように行動する。
失敗しないようにする。
迷惑をかけないようにする。
目立ちすぎないようにする。
空気を読む。

もちろん、学校には学校の役割がある。
集団生活の中で学ぶこともある。
人と協力する力も大切だ。

でも、その一方で、日本の学校は「自分で小さく始める力」を育てることがあまり得意ではないように感じる。

自分で考える前に、正解を探す。
自分で動く前に、先生の指示を待つ。
失敗して学ぶ前に、失敗しない方法を探す。
人と違うことをする前に、周りに合わせる。

そうした空気の中で育つと、大人になってからも、自分で何かを始めることが怖くなる。

これでいいのだろうか。
怒られないだろうか。
変に思われないだろうか。
失敗したらどうしよう。
周りはどう見るだろう。

そう考えているうちに、動く前に疲れてしまう。

海外の屋台を見ていると、私は学校の教室では教えられない学びがあると感じる。

小さく始めること。
自分で考えること。
お客さんを見ること。
失敗したら変えること。
人に雇われるだけではなく、自分の手で生活を作ること。

これは、机の上の勉強だけではなかなか身につかない。

実際に動いてみる。
売ってみる。
断られてみる。
工夫してみる。
また試してみる。

その繰り返しの中で、人は生きる力を身につけていくのだと思う。

そしてこれは、投資にも似ている。

投資も、誰かに正解を教えてもらうものではない。

もちろん、情報を学ぶことは大切だ。
知識を身につけることも必要だ。

でも最後は、自分で見て、自分で考えて、自分で判断するしかない。

誰かがすすめているから買う。
みんなが買っているから買う。
有名だから安心する。
雰囲気で流される。

それだけでは、自分の投資にはならない。

小さく始める。
自分で調べる。
自分で判断する。
失敗したら振り返る。
そしてまた考える。

投資も、商売も、旅も、実は同じところにつながっている。

それは、自分の人生を自分で動かす感覚だ。

日本にいると、この感覚がだんだん薄くなることがある。

周りに合わせる。
空気を読む。
失敗しないようにする。
目立たないようにする。
許可を待つ。
ちゃんとしているふりをする。

そうしているうちに、人は少しずつ、自分で動く力を失っていく。

でも海外に出ると、その感覚が少し戻ってくる。

別に完璧でなくてもいい。
小さく始めてもいい。
今日できることをやればいい。
失敗したら変えればいい。

そういう当たり前のことを、屋台の前で思い出す。

日本は便利な国だ。

清潔で、時間に正確で、サービスも丁寧だ。
決められた仕組みの中では、とても快適に動くことができる。

でも、その便利さや丁寧さの裏側で、私たちは少し息苦しくなっていないだろうか。

ちゃんとしていることを求めすぎて、自由に動く力を失っていないだろうか。

失敗しないことを重視しすぎて、挑戦する力を弱めていないだろうか。

人に迷惑をかけないことを気にしすぎて、自分の人生を小さくしていないだろうか。

海外の屋台を見て、私はそんなことを考えた。

これは単なる旅行の感想ではない。

日本の外に出た時、初めて見えてくる日本の姿がある。

日本にいると当たり前に見えていたものが、海外では少し違って見える。

働くこと。
稼ぐこと。
学ぶこと。
失敗すること。
自分で選ぶこと。

その一つ一つを、もう一度考え直したくなる。

私はこれからも、投資、教育、旅、異文化を通して、日本社会の違和感を言葉にしていきたいと思う。

テーマは一見バラバラに見えるかもしれない。

でも、根っこにある問いは同じだ。

私たちは、自分の頭で考えているのだろうか。

自分で選んでいるのだろうか。

自分の人生を、自分で動かしているのだろうか。

海外の屋台の前で、私はそんな問いを何度も思い出す。

そしてその問いこそが、私が書き続けたいテーマなのだと思う。

海外から日本を見ると、当たり前だと思っていた制度や働き方の違和感が見えてきます。

このブログでは、投資・教育・働き方・日本社会の仕組みについて、現場で感じたことを少しずつ書いています。

コメント